遺骨ペンダントにご遺灰を納め、身に付ける。残されたご遺族の方の想いは様々です。今回は遺骨ペンダントとご遺灰にまつわる、印象的なお話をご紹介させていただきます。
ペンダントの遺灰と母の夢
その方のお父様は、27歳の時にガンで亡くなりました。
お父様が荼毘(だび)に付された後、お母様はお父様の遺灰をペンダントに入れて手元に置いておかれることを望まれたのですが、そのことをとても意外に思ったそうです。
というのも、生前のお父様はたいへん奔放な方で、家族はいつも振り回されていたからです。
お父様は自営業でしたが収入が不安定な上、子供が4人もいたので生活はいつも苦しかったそうです。ところがお父様は、なぜかとつぜん高価な最新のオーディオ機器を買ってきてしまったり、趣味の鮎釣りシーズンには仕事そっちのけで川へ出かけて行ってしまったりと、家計にまったく無頓着な方でした。
お母様は家事の合間にパートを2つ掛け持ちして収入を助けていましたが、4人の子供を抱えてそれだけではとても追いつかず、一時は学校の給食費さえ払えないこともあるほどでした。そんな暮らしの中で、お母様が苦労している様子をいつも間近で見てきていました。
お父様のガンが見つかったのは、子供たちがみんな就職して他県へ出て行き、ご実家の家計も少しずつ楽になってきた頃でした。ガンはすでに手遅れの状態で、お父様は手術せずに自宅で療養することを望まれました。お母様はそれを受け入れ、子供たちの手は煩わせたくないからと一人で看病を続けられました。
お父様は病気の進行とともに寝たきりになっていき、お母様を片時もそばから離れさせないようにしたがりました。そんなお父様に対して「どれだけ母に甘えれば気が済むのか」と腹立たしく思いましたが、当のお母様が「ここまできたんだから、どうせなら最期まで好き勝手させてやりたい」と仰ったので、何も言いませんでした。やがてお父様が亡くなり、最期を看取ったお母様は、子供達を前に「満足して逝ったかな」とぽつりとつぶやいたそうです。
そんな経緯があったので、お母様がさんざん苦労をかけられた夫の遺灰のペンダントを身につけるということに、かなり違和感を持ってしまったのでした。家は北陸の田舎にあり、土地柄からか親戚の中には遺灰を全てお墓に入れないことに強く反対する人もいましたが、お母様は頑として譲りませんでした。そこで「あんな父でも母にしてみたら長年連れ添った夫、いなくなったら寂しいのかも」と思い直して、お母様と一緒に親戚を説得したそうです。
それから数年が経ち、あるとき子供達の元にお母様から「四万十川まで旅行するから一緒に行って欲しい」と連絡がありました。生活が苦しかった子供時代はもちろん、大人になってからも兄弟がそれぞれ違う土地で暮らしているため家族で旅行するなどということは一度もなかった上に、いきなりなぜか四万十川という遠方で兄弟はかなり驚きました。しかし、母のたっての頼みということで、結局人生初めての家族旅行に出かけることになりました。
方々から実家へ兄弟が集まり、はるばる北陸から電車を乗り継いでの長旅の末、とうとう四万十川の上流へたどり着きました。そして河原の石の上に立って、感慨深そうに水面を見つめたお母様が取り出したのは、あのお父様の遺灰が入ったペンダントでした。
お母様はいつも肌身離さず身につけていたペンダントから、迷うことなく遺灰を四万十川に撒き終わると、わずかな遺灰が流れていくの見ながら「やっと連れてきてあげられた」と仰ったそうです。
それからお母様は、鮎釣りが趣味だったお父様が、生前いつも「四万十川に鮎釣りに行きたい」と言ってたこと、厳しい経済状況からそれだけは絶対に許さなかったことを兄弟に打ち明けられました。
淡々と、しかし晴れ晴れとした笑顔で話すお母様の顔を見ながら、お母様にとっての遺灰ペンダントの本当の意味に気づきました。お母様は、夫がいなくなって寂しいからではなく、亡き夫の願いを叶えたいという思いから遺灰を手元に置いておいたのでした。
お母様にとって“夫の夢をすべて叶えること”それこそが、お母様自身の夢であり心の糧だったのです。
現在、お父様とお母様の夢を叶える役目を終えた遺骨ペンダントは、お父様のほかの遺骨とともにお墓に入れられています。ご遺族にとって手元供養は、故人との繋がりを大切にしながら、前を向いて生きていくことを支えてくれる供養の形です。
個人で勝手に遺灰を撒くことは、法律に触れたりトラブルになることもありますので、 専門の会社に依頼することをおすすめします。